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井上陽水 少年時代.flv - YouTube

夏が過ぎ 風あざみ

誰のあこがれにさまよう

青空に残された 私の心は夏模様 〜

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深大寺の鬼灯祭りに行ってきた。

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鬼灯の葉脈が血管みたいに張り巡らされていて、形もハート型で人間の心臓を、人魂を持ち歩いてるみたいな、さわると生の生きている感じが枝だけど不思議に伝わってくる。

枝も太くてしっかりしていて脊髄みたい。

妖怪 貪欲な死神

 

 

孫の顔を見たいと言われた

まだ付き合いも結婚もしてないというのに

自分の希望をヒトに託すのは残酷だ

そして勝手に焦っている風に社会が

年齢が決め始める ドラマさえも

皆が結婚をするから、

結婚をしなければいけない

とかいうことは

皆が大学に進学するから、

進学しなければいけない

に似ている

そんな気持ちも私の中の社会的な操りの罠にハマっているだけかもしれない

重版出来

アマプラで重版出来を全10話みた。漫画家と編集者の関係、出版社の舞台裏を知ることができる。会話の中からの気づきによって主人公 黒沢心の成長につながっていく。

興都館の社長のエピソードや、三蔵山先生のアシスタントの沼田氏のエピソードがとりわけすきだ。ひとりの人生の経験、挫折、これからのこと傍から見ている人間にはわからない苦労がある。

漫画が、漫画家と編集者、書店の関係で生み出されていく様が面白くて、ひとつひとつのモノに意味を見出せることがわかってくる。アツくて泣ける作品だった。

ラブという薬 マインドフルネス

精神科医でミュージシャンの星野概念氏と、いとうせいこう氏の本。星野氏がいとう氏をカウンセリングするという形での対談。精神科のことやカウンセリングのこと、どういった精神療法があるかということを知ることができる。また、精神科医はどんなワークショップを受けたりするか、気持ちの整理の仕方を図に表す形式があったり。精神科の裏側も見られる。

読む中で、マインドフルネスという言葉がひっかかった。今後実践していこうと思う。

デジタルの世界に、あまり気づかなかったこと、大事なことも教えてくれる。ゆるく自分なりに答えを見つけられる本。ブログに書くこと自体矛盾をはらむけれど。。

まるこ手相を見てもらうの巻

いつも新宿のヨドバシカメラでガチャポンしにいく時に、人が並んでいて気になっていた鳳占いの館に並んで手相を見てもらうことにした。占いに行くなんて初体験だし、気がひけた。でも自分の人生の転換期だし、未来なんて見えないし不安だったから少しでも何か自分のことを知って安心したいと思ったから。左手は、持って生まれたもので右手は、変わっていくものらしい。

内容は書けないけれども、自分の決断に自信を塩胡椒少々くらいは持てた気がしたし、先祖に感謝しようと思った。

GIRLSを見終わって、挫けそうだけど、私が最近観たドラマの中で最高だと感じて何故か雑文を書いてる。本当のファックアップを見て、まだまだ私の心配なんて序の口だと思わせてくれる。ドラマは終わるけれども私達の人生は続いていくから。

ディストピア

前回感想を書いた、ハンドメイズ·テイルの世界は、環境や食べ物は汚染され、子供が産まれにくくなり、人口減少で未来が危ぶまれるディストピアの世界である。最近、未来を憂う暗い絶望的なディストピアの中に生きる人々が一縷の希望を抱き、一生懸命生きていく作品が目立つ。今度、公開されるレディプレイヤー1という映画もディストピアである。人口過密で住む場所が確保できにくくトレーラーハウスを積み重ねて住むという場所の節約によるとんでもない建物に意地悪なおばと住む主人公。オアシスという架空のVR世界の宝探しに希望を見出す。現実の世界は、貧困に喘ぎ、生きていくのもやっとの日々。オアシスがあることによってお金を稼ぎ、生き延びていく。

私達の未来を嫌でも予想する。あながちディストピアの世界も私達の未来に近いのではないかと危惧する。あるいは、そんな世界ではなくてよかったと安堵するか、ディストピアにならない為に私達はどうすべきか、考える余地を残される。絶望的な淵からどう這い上がり希望を見出していくか。それは、世界がそのようなディストピアに変わらずとも私達の人生に起こりうる災難や絶望に備えるための答えを導き出すことを課題としているからだろう。

痛みを避けること

はじめて、ブログを書こうと思ったのは自分の感じたこと思ったことを整理し記録しようと思い立ったから。だいたいそういうものは、三日坊主になってしまうけれども。やってみようと思う。

最近、huluでハンドメイズ·テイル/侍女の物語を観た。衝撃的でイライラもするし、私だったらどうなってしまうだろうと考える。

(↓ネタバレ注意)

アメリカで突然法案が通り、宗教的な国に様変わりする。女性の銀行口座は凍結され会社もクビにされてしまう。主人公の女性は家族と国境を越えようとするも離れ離れになり国の"守護者"に拉致されてしまう。連れてこられた場所は訓練センターと言われる場所。子供を産むことができる女性を集めて国の為に子供を産んでもらうように調教させる施設だった。逆らえば電気が走る警棒のようなもので罰せられる。もっと抵抗した場合、聖書の通りに右目をえぐり取られる。センターから出たら、司令官とその妻の侍女となり奴隷のような生活と夫婦の間の子供を代理で産んでもらう為に聖書の通りの儀式(衝撃的な愛のないセックス)を行う。夫婦との生活とそれ以前の幸せだった家族との生活の回想が挟まれたり、段々と国が殺伐としてきた時の回想が挟まれ世界の落差を見せる。第七話まで観たとき、今度は、主人公の女性の夫が生きていて夫の視点からのドラマが挟まれ、手紙で二人がつながる。

このドラマを観て今がいかに女性の自由が守られているか男性も自由に生きられているか今の尊さを実感することになる。間違っていると皆思っていても武力で制圧されてはひとたまりもない。一緒とはいえないが、国の不安定さに今のシリアの政府軍と非政府軍との対立を思い起こさせる。侍女は、アフリカから連れてこられ辛い労働や扱いを強いられた黒人奴隷を思い起こさせる。

一方で司令官夫婦は、人口減少で国の危機の為に女性を本来の生物学的に敬った"かたち"で扱っているんだと思っている。傍から見たら、どっかの国会議員が言った女性は産む機械ということだろう。その印に、侍女は耳に家畜のような赤いタグをつけられる。

 全然関係ない余談として主人公オブフレッド(以前の名はジューン)のパートナーとして一緒に行動していたオブグレンは、元大学教授で同性愛者である。同性愛者は性の反逆者と呼ばれ、罰せられる。女中とオブグレンは、恋愛関係にあることがバレて二人共、移送される時に手を握りあって目で慰めあったシーンで二人の腕毛が気になった。辛い運命にある二人は毛のメンテナンスなんてさせてもらえるはずがないということがイヤに自分の中で目立った。 役者さんも毛が生えることを何故か忘れていた瞬間だった。

原作は、マーガレット·アトウッドの侍女の物語という小説であり、それを読んでみた。ドラマでは最低限の会話とナレーションになっているためか、ジューンの心の声が小説では切実さをもって伝わってくる。ドラマと違っている点をあげるとすると、ジューンの母の回想が挟まれているところ。女性の権利の為に戦った自由な母の存在が余計に以前の時代の尊さを強調させるものになっていく。ジューンの職も少し違う。ドラマでは出版社で働いていたが、小説では図書館で働いていたことになっている。友達のモイラの職はドラマでは明されないが、小説では女性団体の出版社に勤めている。ドラマではその時代に合った職を考えたのかもしれない。

ドラマではジューンが訓練センターに連れてこられた時にモイラの姿を見つけるが、小説では、ジューンが既に訓練を受けている時にモイラが連れてこられる。小説での処罰は右目をえぐりとる描写はない。足をこっぴどく虐待された後の描写はある。

残念ながら、ドラマの希望として描かれるジューンの手紙が、夫のルークに渡るエピソードは、小説ではジューンの想像の域までに留められている。ドラマでメキシコの貿易団の人達の中にルークとジューンを知る人づてに手紙が渡るが、小説では日本人の団体観光客がギレアデを見に来る設定である。どちらにしても、ジューンは質問を投げかけられる。"今、あなたは幸せか?"と。

小説では基本的に侍女は産む道具であるが故に肌のケアやムダ毛の処理はさせてもらえないことになっているため、化粧品の代わりに食事に出ているバターを残しておいて顔に使うエピソードも出てくる。ドラマではカミソリを使わせないため、女中に剃ってもらうことが話される。

ドラマのオブグレンは後に、守護者の車を運転した罰と性の反逆者の為、連行され性器に手術をされ、その後はわからない。小説では救済の儀(罪人の刑の執行と男性の罪人に対して侍女が集団で怒りを発散し虐待する)の後、ヴァンに連行される前に首を吊ったという噂がジューンに伝わる。(男性の罪人は地下組織のメーデーに関わった人物であり痛みを感じないようにオブグレンが気を失わせた。)

モイラは、どちらかというとジューンの母に近い、自由でアウトサイダーな女性である。ドラマでは黒人の女性で同性愛者であり、女性の口座が、凍結された時にルークとジューンと女性の権利について議論する強気なシーンも印象的である。彼女は強い意志の元、センターを脱出する。ドラマではジューンが手助けし、地下鉄に乗る。小説では1人で機械いじりが得意であることを活かし、トイレの部品を武器にし脱出。後で、ジューンとイゼベルの店といういかがわしい店で再会する。

ドラマと小説の大部分は、小説に忠実だけれども細かい設定が微妙に違っていたり、行動が入れ替わっていたりする。(小説の中で舞台は、ギレアデという国として統治されていることになり、宗教の派閥により宗教戦争が行われている。)

司令官に呼び出され、スクラブルというゲームをするとき小説では司令官がわざと勝たせてくれるが、ドラマではジューンが接待スクラブルをする。司令官の部屋では勝たせてあげることにより優位な立場になるというプレイだろうか。

小説は、1990年3月に刊行されたものである。ドラマはストーリーの原型は活かして、より現代に近い形に微妙に変えられている。そのバランスがとれているのと原作が現代にも問題提起させてくれるのでより衝撃的である。

痛みを感じることにより人は、優しくなり、痛みを目の当たりにすることにより気づくことがある。私は、痛みから自分に向き合うことから逃げ続け、生きている感覚を失っていたのかもしれない。大切な人を守るために生きるジューンと今後について、これから小説からどうはみ出していくのか楽しみだ。